生い立ち

更新日:2021年12月01日

生い立ち

孝和は内山永明の二男として生まれました。内山家は、天正18年(1590年)に芦田康貞の芦田五十騎の一人として信州から藤岡に移り住みました。寛永16年(1639年)、永明が御天守番になり江戸に移り住み、そのあと、孝和は関家(五郎左衛門あるいは十郎右衛門)の養子になっています。
寛文元年(1661年)の5月下旬、奈良で『楊輝算法』を写し取り、延宝2年(1674年)12月、『発微算法』を出版しています。この頃、甲府藩に仕え、勘定吟味役となり、貞亨元年(1684年)に甲府藩の検地を行ったことがわかっています。宝永元年(1704年)12月5日、甲府藩主綱豊が将軍就任に伴い幕臣となり、蔵米250俵、10人扶持になりました。そのあと、西の丸納戸組頭になり、蔵米300俵を賜り、宝永5年(1708年)10月24日に亡くなり、浄輪寺へ埋葬されました。

芦田城

芦田城

芦田城縄張り図

芦田城縄張り図

浄輪寺にあるお墓

浄輪寺にあるお墓

関孝和の墓は、東京都新宿区にある浄輪寺にあります。この寺は、孝和の実家である内山家の菩提寺です。現存する墓は、2代目で、「鶴丸」の家紋に、「法行院殿宗達日心大居士、宝永5年(1708年)戌子十月二十四日卒」、側面に「姓藤原、諱孝和、称関新助」と刻んであります。
その脇には、門人により「関先生の墓」と刻まれた記念碑が建っています。昭和33年に東京都の史跡に指定されました。

光徳寺にあるお墓

光徳寺にあるお墓

藤岡市にある関孝和のお墓は、関孝和先生没後250年祭の昭和33年に、芦田城主の菩提寺である光徳寺に孝和の御霊を迎えて墓所を築きました。そのあと、昭和58年の秋に関孝和先生顕彰会を中心に同所に墓碑が建てられました。墓所は芦田氏累代の墓の真下に位置しています。

観音院にある墓碑

そのほか、金沢市に関孝和先生没後150年の安政4年(1854年)にふたつの墓碑が建てられました。ひとつは立像寺にある武家の門人によるもの。もうひとつは観音院にある町民の門人によるものです。

出生地について

出生地については、古くから研究が進められていましたが、どの文献にも出生についての決定的根拠がないため謎に秘められていました。これは、基本文献である文化9年(1812年)の『寛政重修諸家譜』や文化6年(1809年)の『断家譜』に記載漏れや誤りが多いためで、他の文献と総合的に取り扱う必要があります。以下、3つの説がありますが、当市では藤岡生まれを採っています。

寛永14年(1637年)藤岡生まれ
寛永19年(1642年)小石川(東京)生まれ
寛永17年(1640年)~正保2年(1645年)武蔵(江戸に近い武蔵)生まれ

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