富岡製糸場と絹産業遺産群
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本との間の技術の「交流」を主題とした近代の絹産業に関する遺産です。
日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに変えました。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」群馬県立世界遺産センターホームページ
富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産
富岡製糸場
明治5年に明治政府が設立した官営の器械製糸場です。民営化後も一貫して製糸を行い、115年間使用されました。創業時の長さ100メートルを超える木骨レンガ造りの繭倉庫や繰糸場など主要な施設がほぼ完全に残されています。
田島弥平旧宅
通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が、文久3年(1863)に建てました。主家兼蚕室は間口約25メートル、奥行き約9メートルの2階建てです。風通しを考え、屋根に換気用の越屋根をつけた近代養蚕家屋の原点となった建物です。
荒船風穴
明治末に造られた、岩の隙間から吹き出す冷風を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設で、取引先は全国40道府県におよびました。3基の風穴があり、貯蔵能力は国内最大規模で、現在でも石積みの間から天然の冷風が吹き出しています。
高山社跡
高山社跡は「養蚕改良高山社」の創始者・高山長五郎(生没年1830~1886)の生家で、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行っていた場所です。
長五郎は明治6年(1873)「養蚕改良高山組」を組織し、自宅で養蚕法の改良と組合員への指導を行いました。明治17年(1884)には「養蚕改良高山社」と改称し初代社長に就任しています。その後、教えを請うものが増えたため明治20年(1887)に藤岡町に事務所と伝習所を移し、自宅は高山分教場として後進の指導を続けました。
現在は蚕室(養蚕用家屋)と付属屋が残っておりますが、周囲にも蚕室の痕跡が認められるため、現存する建物だけでなく敷地全体が世界遺産構成資産、また、国指定史跡となっています。
更新日:2024年07月10日