和算って何だろう?

更新日:2021年12月01日

明治維新以後の西洋の数学に対して、日本で発達した算数や数学のことを「和算」と言います。和算は鎖国をしていた江戸時代、西洋の影響を受けずに独自に発達したもので、庶民から武士までの大勢の人に広まりました。また、数学の問題や答えを額にした「算額」を絵馬と同じように寺社に奉納する習慣がありました。
和算は大きくふたつの方向に進みました。ひとつは、そろばんを中心とした生活に必要なもので、一般庶民に広まりました。特に、1627年に吉田光由が書いた「塵劫記」(じんこうき)は、そろばんなどの実用数学やねずみ算といった数学遊戯が紹介され、べストセラーとなり何版も増し刷りされました。
もうひとつは、高度な代数・方程式などを扱う実用の範囲を超えたものに発達しました。その結果、関孝和による「行列式」の発見は西洋での数学よりも早く発見されたもので驚異的なものでした。そのあと、特定の人たちが流派を作るようになり、遊芸的な性格を強めるようになりました。

塵却記

塵劫記

関流和算

関孝和を開祖とする流派で、門人も多く当時の主流派を成していました。関は弟子の建部賢弘(かたひろ)・賢明(かたあきら)兄弟らと関流の学習過程を定めた「大成算経」を著わし、和算の向上に尽くしました。そのあと、弟子の山路主住(やまじぬしずみ)により免許制度などが整えられました。

最上(さいじょう)流和算

会田安明は山形七日町生まれで、旗本鈴木家の養子となり江戸に出て幕府の普請役を務め、鬼怒川や利根川近辺の治水工事に携わっていました。そのあと、鈴木姓から会田姓に復し和算研究に没頭し「最上流」を名乗り、優れた弟子を育て東北地方の和算の発展に大きく貢献しました。江戸時代最大の和算流派である関流に対抗した代表として知られています。

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