平井城跡

更新日:2021年12月01日

県指定史跡

旗と緑の芝生の見える平井城跡の公園の写真

 足利尊氏は室町幕府の成立に際し、鎌倉幕府のあった関東を特に重視し、鎌倉府を設置します。鎌倉府には鎌倉公方と鎌倉公方を補佐する関東管領を設けます。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、与えられた権限も大きかったため、やがて将軍に反抗するようになりました。

平井城跡の復元された堀と橋の写真

 6代将軍足利義教の時には、長らく幕府と対抗関係にあった鎌倉公方足利持氏との関係が決裂します。このとき関東管領であった上杉憲実は、反幕行動を露骨にあらわす持氏を常に制したため、公方と関東管領との関係も次第に対立的なものへと変化していきました。1438年(永享10)年持氏の反感をより強めた憲実は、鎌倉山内館にいられなくなり、平井城に退去します。持氏は平井城に兵を向け、直接的な武力行使に及びます。これに対して持氏の出兵の報を受けた義教は討伐軍を送り、翌年持氏を滅ぼします。この一連の事件は「永享の乱」と呼ばれていますが、この永享の乱の舞台となったのが、平井城です。平井城は築城から廃城まで百数十年経過しており、この期間に何度も改修を受けています。したがって、わたしたちが現在目にしている姿は、永享の乱当時の状態を必ずしもとどめてはいません。このため、整備については発掘調査の結果を基に平井城在城の最終段階と捉えられる16世紀中頃の時期を設定し、復元整備を行っております。

  • 指定日 平成11年4月30日
  • 所在地 藤岡市西平井

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