高山社に関係する人物

更新日:2021年12月01日

高山長五郎(1830年~1886年)

高山長五郎肖像画

高山長五郎

高山長五郎は、文政13年(1830)緑野郡高山村(現在の藤岡市高山)に生まれ、明治元年(1868)頃に「清温育」を考案し、この伝習のため明治6年(1873)自宅に「養蚕改良高山組」を創立しました。(明治17年(1884)に高山社と改称)
高山社には全国から生徒が入学し、優秀な卒業生を「授業員」として全国に派遣し指導にあたらせた。この結果、「清温育」は明治時代中期以降全国標準の飼育法となりました。
明治19年(1886)、長五郎は56歳の道半ばで亡くなりました。
後を継ぐことになった町田菊次郎への遺言は「益々清温育法を研究してこれを全国に傳(つた)へ冶(あま)ねく蚕業の改良を図り以て国利民福を増進すべし」と述べました。この遺訓は、高山社の信条とされました。

町田菊次郎(1850年~1917年)

町田菊次郎肖像画

町田菊次郎

町田菊次郎は嘉永3年(1850)、本郷村(現在の藤岡市本郷)に生まれました。
高山長五郎に見いだされた菊次郎は、長五郎の遺志を継ぎ、明治19年(1886)、高山社2代目社長となりました。
積極的な行動力と優れた判断力を持ち、学校創立とともに社員制度、授業員制度、分教場制度等の事業を整備拡充し、弱い人のために尽くす「救世済民」を座右の銘としていました。

木村九蔵(1845年~1898年)

木村九蔵肖像画

木村 九蔵

弘化2年(1845)緑野郡高山村(現在の藤岡市高山)に生まれました。高山長五郎の末弟で、幼名は巳之助といいました。
慶応3年(1867)新宿村(現在の埼玉県神川町)木村勝五郎の後継者となり、姓名も木村九蔵と改めました。その後、養蚕業の改良に努め、養蚕法「一派温暖育」を発表して養蚕改良競進社(現在の埼玉県立児玉白楊高等学校)を組織しました。
本庄市児玉町に残る模範蚕室は、埼玉県の重要文化財に指定されています。

高橋茂太郎(1860年~1918年)

高橋茂太郎肖像画

高橋茂太郎

高橋茂太郎は、万延元年(1860)多胡郡下日野村(現在の藤岡市下日野)で生まれました。
明治10年(1877)に長五郎に弟子入りし、明治14年(1881)には授業員(養蚕教師)に抜擢されました。その後、明治17年(1884)高山社創立にあたり監査役に、明治19年(1886)には長五郎の遺言により副社長となり、社長の町田菊次郎を支えました。
明治24年(1891)には長五郎功徳碑建設委員長として大役を果たしました。

高山武十郎(1860年~1951年)

高山武十郎肖像画

高山武十郎

高山武十郎は万延元年(1860)に北甘楽郡岩崎村(現在の高崎市吉井町)で生まれました。幼少より母の養蚕を手伝い、明治10年(1877)に長五郎に弟子入り、研究熱心なことから長五郎に認められ、明治14年(1881)長五郎の長女フサと結婚し高山家の婿養子となりました。
長五郎没後、社長となった町田菊次郎を高橋茂太郎とともに副社長として補佐しました。
町田菊次郎没後は社長として高山社を支え、昭和2年(1927)の蚕業学校廃校後、町田菊次郎頒徳碑の建設を実現しました。

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